掃除の前と後

2024.03.24 Sunday

金龍山中腹にある中島家廟所付近は杉が多く、数日にわたる強風のせいで一面杉の葉だらけになってしまいました。昨年に比べ今年は特に酷かったので掃除前と掃除後とデジカメで撮影してみました。

 

中島家廟所に至る石段

 

掃除前

 

掃除後

 

廟所の左側

 

掃除前

 

掃除後

 

廟所の右側

 

掃除前

 

掃除後

 

お彼岸中も強風があり再び掃除をすることになってしまいました。早く穏やかな日が来てもらいたいものです。

お地蔵様の帽子の寄進

2024.03.17 Sunday

5日、観音講講員の大石様より、お地蔵様の帽子を寄進して頂きました。今年も帽子を一生懸命に作って下さりました。新しい帽子を被ったお地蔵さまも喜んでいることでしょう。

 

2024.02.18 Sunday

6日は久しぶりの雪でした。午前中、雪かきしながら境内を撮影してみました。(※12日前の出来事で申し訳ございません。)

 

雪つりがやっと役立ちました。

 

鐘楼堂から見た金山

 

お地蔵様の頭に積もった雪

 

午後、仙台に用事があって車で行ってきましたが、ほとんど雪が無い風景に驚いてしまいました。

ラジオ深夜便 これまでのお墓これからのお墓

2024.01.14 Sunday

1月12日の朝4時から始まるラジオ深夜便「明日へのことば」で、僧侶でありジャーナリストの鵜飼秀徳氏の「これまでのお墓これからのお墓」と題しお墓についての放送がありましたので紹介致します。

 

興味のある方、お時間のある方は、ラジオ深夜便の聴き逃しサービスをクリックし聴いてみて下さい。

 

聴き逃しサービスは1月20日に終了してしまうので、ラジオを聴いてまとめてみました。自分なりにまとめたのでわかりずらいところがあるかと思いますが、ご了承下さい。

 


 

ラジオ深夜便「これまでのお墓これからのお墓」鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)

 

 

いま何が起きているのかお墓の変遷を辿りこれからのお墓を考える。

 

コロナを振り返ってみると、初年度(2020年)は法事・お葬式の規模が小さくなった。ところがお墓参りに関しては秋のお彼岸には平時に戻った。現在はコロナ前よりもお墓参りは多くなった。5類になってから法事の規模もコロナ前に戻った。弔いごとは、みんなで集まりたいという気持ちが強かったものと思われる。老人施設あるいは病院で満足に看取れなかった方が納骨されてから丁寧に手を合わせたいという気持ちの揺り戻しではないかと思われる。

 

●全国のお墓をたずね歩いて

全国のお墓を数年間たずね歩いて、北海道のお墓、東京都心部のお墓、京都のお墓、大阪のお墓、九州のお墓、沖縄のお墓の形態は全然違うし弔い方も違う。日本人は豊かな葬送文化を持っていると感じた。

 

●改葬と墓じまいについて

改葬(かいそう)とは、ふるさとのお墓からお骨を取り出して自分たちが住んでいる近くの納骨堂に持ってくること。墓じまいは改葬の一種ではあるが、一族の墓を撤去してさら地に戻して永代供養にすること。

 

●家族葬と直葬

お葬式の簡素化として、都会の方ではほとんどが家族葬になった。東京の都心部では家族葬に加えて直葬(ちょくそう・じきそう)という葬式をしない。病院や高齢者施設で亡くなると、日本の法律上では24時間経たないと火葬が出来ない。どこかに24時間安置しお葬式せずに火葬をする、これを直葬という。東京では家族葬と直葬を合わせてほぼ100%に近いと思われる。

 

●散骨、樹木葬、永代供養という言葉をよく聞くが、これは何が起きているのか?

リーマンショックの2007年から2008年を境にして様々な種類のお墓が出てきた。例えばロッカー式の納骨堂、室内式の納骨堂、樹木葬、自動搬送式の納骨堂という近代ビルの中にICカードをかざすと自分たちが契約している納骨箱が出てきてブースの前で手を合わせるタイプのもの、お墓を持たない散骨特に海洋散骨が出てきた。

 

●お墓を巡って起きていることを理解するにはどこまで遡ったらよいのか?

日本人の埋葬の歴史は旧石器時代、縄文時代まで遡る。遺跡には手厚く埋葬していた形跡がある。例えば集落の真ん中にお墓を作ってその外側に人々は暮らしを営んでいた旧石器時代の遺跡がある(お墓中心のコミュニティー)。その後に古墳時代があり、権力者の広大な敷地をもったお墓が奈良や大阪にたくさん作られるが、ある時忽然と終わる。平安時代になるとピタッと弔いがなくなり、京都などでは野ざらし、いわゆる風葬(ふうそう)が権力者の間で流行ってくる。弔いにこだわらない今と通じるものがある。江戸時代に入ると今の形と似ているお墓が始まる。明治時代に入ると戦争の時代に入り、戦死者の弔いという形でお葬式が肥大化していく。英霊を村をあげて弔ってゆくという戦前から戦後にかけて壮大なお葬式が続いていく。今は弔いが多様化し簡素化している状況である。

 

●お寺と檀家の関係ができたのはいつから?

江戸時代の最初、西暦にすると1630年代。1637年にキリシタンの反乱いわゆる島原の乱がおこる。この乱をきっかけにキリシタンの排斥運動、江戸幕府が日本人を全て仏教徒にするという政策に転換していった。村社会の中に一つお寺を作る、これを一村一寺の制度といい日本全国にもれなくインフラとして整えていった。村人たちは中心にあるお寺の檀家になるという制度として固まっていく。つまり檀家になるのが義務となる。檀家になる事で宗門人別改め帳という帳簿に住職が記録するようになる。いわゆる戸籍の原形のようなものである。村ごとに作成され庄屋が保管する。これをきっかけに日本人全員が仏教徒になった。

 

●永代供養のはしり

亡くなったらお寺の境内地あるいは村のはずれの墓地に自分たちのお墓を持って一族が埋まっていく。次男筋は別のところに作ってゆく。現代の形に近いことが江戸時代の初期に京都を中心に展開していった。江戸時代は引っ越しが認められなかった。ゆりかごから墓場まで村社会で一生を過ごしていた。

 

幕末の頃、大阪の一心寺(四天王寺の近く浄土宗)が故郷へ戻れない次男筋のために、故郷の親のお骨を少し持ってきて納骨することが始まった。今の永代供養のはしりである。あまりにニーズが高まり、お骨を砕いて粉末にして阿弥陀仏にする骨仏(こつぼとけ)を造り非常な人気となった。仏像一体当たり十数万のお骨で出来ている。この形態は今でも人気があり受け入れ制限をするほどである。

 

●埋葬の方法の変遷

埋葬とは土に埋める事である。平安時代の平安京では埋めるというより風葬(ほったらかしに近い)に近かった。京都には三ヶ所、広大な風葬の地があった。鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)、化野(あだしの)の三ヶ所である。

 

●火葬はいつ始まったのか?

火葬の一番古いのは奈良時代である。行基(聖武天皇の命で各地に国分寺が造られたあるいは橋の修繕された方)の師匠である道昭(法相宗開祖)が最初に火葬されたといわれている(続日本紀によれば文武天皇四年、西暦七〇〇年)。その後、火葬が天皇家に取り入れられていった。その当時の火葬は大変で大量の薪を使用しお骨を拾ってお墓に納めなければならない。京都において庶民は風葬あるいは土葬。一部の権力者は火葬。中世は風葬・土葬・火葬と混在していた。

 

●仏教はなぜ火葬なのか?

約2500年前、お釈迦様が火葬されたからである。多くの宗教は土葬、イスラムは完全に土葬、キリスト教も土葬、日本の神道も土葬、火葬の方が珍しい。江戸時代のはじめにお寺の境内地の片隅に火葬場(野焼き場)を造り、村人たちの火葬を行っていた。ただし地域による。大阪は火葬がほとんど、江戸は半々ぐらい。北陸は火葬が多かった。なぜ火葬が多かったかというと浄土真宗の本山納骨という西本願寺・東本願寺に分骨を行うことをしていた。山間部が多い中国地方や山陰地方、滋賀県、奈良県は土葬が多かった。

 

●明治以降の火葬

明治以降に火葬が増える。明治元年に神仏分離令という法律ができる。徳川家は仏教で納骨しようとしたが、明治新政府に権力が移り仏教否定に回る。神道と国家が結びつくようになる。神道は土葬なので一時期火葬禁止令が出る。この時期、日本人が全員土葬に戻った。京都や大阪は火葬だったのでお墓のサイズが小さい。京都などは90センチ角の敷地なので土葬ができないので急遽土葬用の墓地が整備される。土地が無い東京では江戸屋敷をつぶして、都立霊園を造った。都立青山霊園、都立雑司ヶ谷霊園、谷中霊園など広大な霊園はその名残である。これらの霊園には古い土葬用の墓地があり石塔が傾いている。その理由は土葬にすると年月が経つにしたがい空洞ができるからである。

 

●再び火葬が増えていった理由

コレラといった疫病が流行り出した時に土葬だと地下水が汚染したり衛生状況に関して様々な懸念があって火葬に戻った。火葬場が一気に整備され、大正から昭和初期にかけて火葬の割合が増え、終戦直後あたりに火葬と土葬が五分五分ぐらいに戻る。今では日本は世界一の火葬大国になっている。大正2年の時の火葬率は31%、終戦直後の昭和22年で54%、今から45年前の昭和54年で90%を越えて、今は99.9%である。なぜ火葬大国かというと国土が狭いことと仏教国というのが大きい。

 

●今でも土葬が残っている理由

残りの0.0何%は土葬である。厚生労働省の衛生行政報告例という平成29年のデータによると土葬は103軒。内訳は日本国内のイスラム教徒の方、仏教徒で土葬したい方である。仏教徒で土葬は京都の南部、奈良の北部、滋賀県の一部に今でも土葬を希望する方が少数であるがいらっしゃる。土葬を禁止しないのは信教の自由に関わる問題だからである。但し、東京都の区の条例で土葬禁止しているが法律の墓地埋葬法では禁止していない。

 

●両墓制とは?

単墓制とはお墓が一つという形態、これが一般的。両墓制とは魂と肉体が埋められる二つのお墓である。山の中に土葬するのを埋め墓・すて墓・サンマイと呼ばれる。集落から遠く離れたところに埋められるお墓なので普段は近づかないしお参りをしない。埋葬して四十九日が過ぎると魂を移して菩提寺の墓地に遺体が埋まらない魂だけのお墓を建立する。これを詣り(まいり)墓・きよ墓という。この二つのお墓の形態を両墓制と呼んでいる。北は埼玉県、滋賀県、京都、三重県の一部、瀬戸内海の島々に残っている。両墓制は土葬を原則としているので、現在は火葬率が上がり、さらに二つお墓を造るのは大変だということで無くなりつつある。

 

●弔い方が大きく変化している今、永代供養とは?

永代供養は永久に行う供養ではない。その多くは期限付きで33回忌を節目にお骨を出し別の合祀墓に移す。短い期限では7年というのがある。短い期限というケースもあるので永代供養を考えている方はお寺の契約形態をしっかり確認した方が良い。建物の中にあるロッカー式の納骨堂も永代供養をうたってはいるが永久ではない。ロッカー式の納骨堂は骨壺のまま納めるので出し入れしやすいが為に期限がついている。期限を設けないと流動化できないので経営が難しくなるのが背景にある。人気のある樹木葬も永代供養をうたっている。樹木葬にはさまざまなタイプがある。樹木葬には野山にお骨を撒くイメージがある。岩手県一関市にあるお寺は山全部を樹木葬の場にしているが、多くは霊園の片隅に大きな納骨室を造りその脇に枝垂れ桜といったシンボルツリーを植える。シンボルツリーが無ければ一般の合祀墓と変わらない。今はやりなのは30センチ角のプレート置いて、その下に夫婦あるいは個人で納まる樹木葬が人気である。みんなと一緒という樹木葬もあり十分な確認が必要である。樹木葬は永代供養をうたっているが永久ではない。例えば関東では骨壺のタイプで取り出しやすいが為に期限付きが多い、反対に関西ではみんな一緒に納骨室に合祀されるので取り出しすることもできない。

 

●新しい弔い方

アメリカではコンポスト(自然発酵する肥料)葬が近年エコロジストの間で広がっている。亡くなられるとカプセル状のブースに入れられ、ある程度の時間をおいて土にかえる仕組みである。そしてその土を自然保護林に撒く。完全に地球の一部になる。アメリカのいくつかの州では合法化している。日本では法整備が整っていない。つまり肥料や土になったとしてどこに埋葬するのかという問題がある。日本では霊園に指定された場所でしか埋葬されない決まりになっているので、土だからどこでも埋めていいとはならない。

 

●日本で行われている新しい弔いの形態

お墓の見本市で、手元供養というのが増えてきた。仏壇に遺骨をしゃれたケースに入れて置いたままにしておく、あるいは遺骨に高温高圧をかけて人工ダイヤモンドという宝石にする。遺骨を業者に依頼すると海外の工場で人工ダイヤモンドとなって戻って来るが結構高額である。人間の骨以外ではペットの骨をアクセサリーにする。墓石のない墓地としてオランダではコンポスト葬に似ているものとして、早く土にかえる特別な御棺を作って埋葬する。この形態は墓地のサイクルが早まる、つまり墓地を再利用しやすいというのもある。オランダは国土が狭く限られているというのもある。京都の南丹市では墓の継承問題が大きく個々の家でお墓を維持管理していくのは難しいというので、村単位で合祀墓を造りみんなでお祀りして永続的に管理するというのがある。大阪の一心寺のケースと似ている。

 

●墓じまいという流れの中での葛藤

僧侶の立場としてはせっかくお墓を設けたのだからこれからもお祀りして頂きたいという気持ちがある。一方で経済的、子供や孫に負担をかけたくないという責任感で墓じまいをするという気持ちもわかる。興味深いデータに東京の大学(鵜飼さんの教えている)でのアンケートでは「お墓を守っていきたい」「お墓を大切にして行きたい」という回答が8割を越えている。若い方の弔う心というのは希薄化と思いきや必ずしもそうでないことがわかった。むしろお墓参りは大切だと思っている若者が多い。お墓は負の遺産ととらえる人もいるが、子供にとって情操教育の場となりうる。お墓の前で手を合わし日々を反省する、お世話になった故人とのつながりを意識するといった目に見えない心の教育の場所である。

 

●この荒波をどう越えるか?

お墓の分譲といった利益主義になっているお寺さんも多い。そうではなくて、お寺に集う仕組みを作ってゆく、そして祈りの空間であるべきだと思う。特にコロナ禍で家に閉じ込められてしんどいとか、亡くなったおじいさんおばあさんお父さんお母さんと対話をしたいということでお寺に集まった方が多かった。心の受け皿としてお寺が機能していく時代になればお墓も維持していけるのではと思う。社会も変化するしお寺も変化していかなければならない。

謹賀新年

2024.01.01 Monday

大晦日

2023.12.31 Sunday

ブログ更新も今日で最後になりました。

 

瑞雲寺の梵鐘の左右には「人類幸福」「世界平和」の銘があります。
来年度も皆様にとって良い年となるよう除夜の鐘をつきました。

 


皆様、一年間「瑞雲寺だより」を読んで下さりありがとうございました。

セエノメエの古碑群

2023.11.30 Thursday

今日の午前中、旗巻古戦場近くの世話人様のお宅に向かっていた時のことです。青葉温泉からほど近い「セエノメエ」古碑群の一つである青面金剛供養塔(庚申碑)に刻まれた図柄が太陽光線の角度のおかげで、はっきりとわかることができました。その図柄というのは、見ざる・聞かざる・言わざるの三猿です。

 

セエノメエ古碑群

 

古碑群の説明

 

青面金剛供養塔(庚申碑)

 

見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が太陽光線の関係ではっきりと確認することができました。

 

こちらは鶏のメスとオス

 

耳の神様(道祖神)

 

三猿を確認するのでしたら、午前中がおすすめです。

秋の小富士山登山

2023.11.28 Tuesday

22日はとても天気が良かったので、近くの小富士山に登ってきました。瑞雲寺からですと頂上まで、歩いて30分程です。高さはそんなにありませんし、とても見晴らしが良い山です。

 

瑞雲寺のイチョウの葉もだいぶ落ちました。

 

土手から見たお館山

 

だいぶ色づいた小富士山

 

天気が良いので小富士山に登ってみました。

 

相変わらず大きい小富士山の大石

 

そんなに高くない山ですので、すぐに到着しました。

 

小富士山から見た鹿狼山

 

お館山と金山の町。奥は亘理地塁。

 

旧金山小学校

 

台風19号の影響による家の解体で空き地が増えました。

 

金山神社と大竹メリヤス工場跡地

 

佐野製糸場跡と金栄橋

 

阿武隈川と原町。昔は乗船場があったそうです。

 

近くには町指定文化財である立石があります。

池の水が回復

2023.09.15 Friday

8月から9月にかけての連日の猛暑で山の水が止まり、池の水が無くなってしまいました。8日に降った雨で池の水量が回復しました。

 

連日の猛暑で水がほとんど無い池

 

何とか池の水が回復

常照寺様にて法話

2023.07.22 Saturday

9日、常照寺様の本堂にて観音講の皆様の前で約一時間の法話をさせて頂きました。内容は観音様についてです。その後、御祈祷、総会、食事、余興に参加。とても楽しいひと時でした。

 

常照寺様での思い出というと小学生の頃、一泊二日の坐禅会に参加したことです。坐禅が終わった後の休憩に食べるアイスは最高でした。翌日は歩いてすぐの公民館の広場でラジオ体操をしたのを覚えています。

 

常照寺本堂。以前は真言宗とのことで本尊様は大日如来様です。

 

鐘楼堂

 

本堂より筆甫小富士が見えました。

 

帰り道は町営牧場、黒佐野を通って帰宅しました。この付近の道路を通ると巨石や石碑をさかんに巡っていた頃を思い出します。再びはまってしまいそうな魅力的な地域ですので自制しなければと思う一日でした。