お彼岸といいますと、「暑さ寒さも彼岸まで」あるいは、家族みんなでお墓参りというのが一般的です。

期間としてはお彼岸は秋分の日を中日として前後一週間行われます。

詳しいお彼岸の期間としては、明日19日から25日までのことをいいます。

中日は、19日と25日の真ん中の日、すなわち22日秋分の日のことをいいます。

お彼岸はお墓参りをする期間のように考えられていますが、この「彼岸」という言葉には深い意味がございます。苦しみの多いこの世界を「此岸(しがん」というのに対して、苦しみのない悟りの世界を「彼岸(ひがん)」といいます。

 

お釈迦様は彼岸に到る道を波羅蜜(はらみつ・パーラミター)といい、「六波羅蜜」という六つの行いを教えています。

それでは、彼岸に到る六つの行い「六波羅蜜」とは何かと申しますと

一、布施(ふせ) 布施とは、物でも心でも相手の見返りを求めない。

二、持戒(じかい) 持戒とは、仏教徒としての日常生活のきまり(戒)を守ること。

三、忍辱(にんにく) 忍辱とは、ちょっとしたことにすぐカッとしたり、恨んだり、悪意を抱かず、我慢する勇気。

四、精進(しょうじん) 精進とは、善を行い悪を絶つ努力を継続的に行うこと。

五、禅定(ぜんじょう) 禅定とは、坐禅をして心を落ち着かせること。

六、智慧(ちえ) 智慧とは、坐禅をすることによって生まれる宗教的叡智。


以上の六つを実践修行して、理想の彼岸に渡るのがお彼岸です。

 

「今日彼岸 菩提の種を 蒔く日かな」

 

お彼岸は良い種を蒔く日であります。

自分の心の中に六波羅蜜という種を蒔き、悔いのない生活を送りたいものです。

 

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3日前の5日は達磨忌(達磨さんの命日)でした。

達磨さんは、南インドの人で香至王の第三王子と伝えられています。般若多羅尊者(はんにゃたらそんじゃ)について坐禅修行にはげみ、高齢になってから中国に渡りました。その後、梁の武帝と面接。国の発展の為に仏教を利用した武帝と考えが合わず、洛陽の郊外にある少林寺(※少林寺拳法で有名)にて坐禅を行い、坐ること九年間にわたったといわれます。この行跡を面壁九年(めんぺきくねん)と呼んでいます。

その後、達磨さんの弟子慧可大師(えかだいし)が法を受け継ぎました。器から器へ水を移していくように各祖師方が法を受け継ぎ、やがて永平寺を開かれた道元禅師に伝わりました。

達磨さんの亡くなられた年には諸説あり、宇井伯寿著「禅宗史研究」によりますと、「北魏孝武帝の初年、梁の武帝中大通四年(532)示寂した」とあります。年は百五十歳といわれておりますが、不明な点は多いようです。

達磨さんといいますと、「ダルマさんが転んだ」「にらめっこ」などの遊びや、倒れても起き上がる「起き上がり小法師」という玩具が思い出されます。インド生まれの達磨さんが、まさか遠い日本で子供の遊びや玩具になって親しまれているとは思いもしなかったことでしょう。

今日は、達磨さんについてお話をしました。

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達磨さんの工芸品

セミの声もアブラゼミからツクツクボウシに変わり、何となく秋が近づいてきているような感じがします。

朝の4時頃でしょうか、いきなりミンミンゼミが鳴き出して目が覚めてしまいました。
とてもうるさいので、網戸を開けたら「ジジッ」とお墓のある方に逃げていきました。

セミの思い出といいますと、小学4年の時、夏の自由研究で「セミ」を取り上げたことです。
きっかけは、セミの羽化を偶然目にしたことに始まります。

暑い日の夕方、カブトムシを探そうと散歩をしていた時のこと。ふと、柿の木に目をやると見慣れない茶色の昆虫がゆっくり登っていき、ちょうどいい高さで止まりました。

「いったい何が始まるのか?」とじーっと見つめていると、背中が徐々に割れて白いモノが出てきます。どれくらい時が経ったでしょうか、体が全部出て羽が伸びきった時に、やっとセミだとわかりました。白と薄緑の羽化した神々しいセミの姿に小学生ながら感動する出来事でした。

羽化の感動をもう一度味わいたいと、次の日の夕方に散歩をしていると、同じ柿の木をセミの幼虫がゆっくり上へと登っているのを見つけました。

「また綺麗な姿を見ることができるかな」と観察していると、残念ながら背中が割れずに死んでしまいました。中には羽化の途中で死んでしまうのもありました。この死んだセミの幼虫を見るのはとても辛かったのを覚えています。

無事に羽化できたセミ、死んでしまったセミの幼虫を見ているうちに、この昆虫はどんな一生を送るのか自由研究で調べてみようと思いつきました。

翌日プールに入った後、金山図書館で昆虫の図鑑を開いてみると「セミのメスが生んだ卵が1年かかってかえり、約6年地中で暮らす。7年目の夏に羽化し約7日間ほど生きる(※色々説があるそうです)鳴いているのはオスで、メスは鳴かない」等のようなことが書いてありました。

自由研究では、羽化の観察と抜け殻の採取、日中はセミを採ったりして夏休みを過ごしました。模造紙には季節や時間によってセミの種類が違うこと、金山にいるセミ、泥のついた抜け殻はニイニイゼミ、十七年生きるセミの事などを書いて発表しました。しかし同級生から字が小さくて全然見えないと言われ学年代表に選ばれすらしませんでした。

残念な自由研究でしたが、私が得たものは大きかったです。それは、セミはその年に生まれ、やかましく鳴いて死んでゆく昆虫だと思っていたのが、約7日間を生きるために7年もの間地中で暮らす事実を知ることができたからでした。

セミに限らず私たちは、どうしても物事の表面だけを見がちです。綺麗に咲いた花は素晴らしいですが、そこに至るまで肥料や土壌、水やりのことまで思いをめぐらす方は少ないのではないでしょうか。食事だってそうです。今、目の前にあるご飯の一粒一粒が出来上がるまでいかに多くの人々の手数や苦労があったかを考えれば素直に「いただきます」と言えるのではないでしょうか。

あとどれくらいセミの鳴く日が続くことでしょうか。「あぁ、うるさいなぁ」と思わずに、7年の命がわかる人となりたいと思ったひと時でした。

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アブラゼミ

私が小学生の頃の楽しみといえば、給食を食べることでした。
丸森町の給食センターでつくるメニューはどれもがおいしく、特にカレーは絶品でした。給食の時間は食べることの他に、スピーカーからクラッシックやアニメの主題歌が流れ、とても楽しかったことを今でも覚えています。

印象に残っていた歌は「これでいいのだ」の決まり文句で有名な「天才バカボン」。これは赤塚不二夫原作のギャグ漫画でバカボン一家を中心に個性的なキャラクターが活躍。当時私は再放送でアニメを見ていました。
 
「天才バカボン」を見なくなってしばらく経ち、お釈迦様に関係する大切な法要の中で度々薄伽梵(ばぎゃぼん)という言葉が耳に残り気になっていました。
もしかして「天才バカボン」と仏教との結びつきがあるかもしれないということで、この言葉の意味を調べてみると『薄伽梵(ばがぼん) ばぎゃぼんともよむ。仏の称号。仏の異名。世尊、すぐれた者、煩悩をうち破るもの、もろもろの徳を有する者』(中村元著「仏教語大辞典」)と説明してありました。簡潔に言いますと薄伽梵とは「仏様」を意味していたのです。


R0012159.jpgさらに「天才バカボン」と仏教との結びつきを調べるため、コミックを借りて読んでみました。するとパパの誕生秘話の巻で、バカボンのパパが病院で誕生し医者が見守るなかヨチヨチと歩きだし、立ち止まったところで「天上天下唯我独尊」としゃべったシーンがありました。おそらく赤塚先生はお釈迦さま誕生のエピソードを知っていたと思われます。

その後、バカボンのパパは木枯らしが吹く中、大きなくしゃみとともに歯車が口の中から飛び出して自分が持っていた天才とお別れしてしまうのでした。なんとも赤塚先生らしいストーリー展開ですね。
 
この「天上天下唯我独尊」という言葉は、私たち一人一人はとても尊く、かけがえのないたった一つの命をもっている大切な存在であり、それぞれに役目をもってこの世に存在しているということを教えております。「天才バカボン」のストーリーは一見ナンセンスですが、そこを中心に描かれている様でとても人間的な暖かさを感じます。(例えば、町を掃除するレレレのおじさん等)


数年後、赤塚先生著「まんがプロ入門」を読む機会があり、「タイトルのネーミング」で天才バカボンの題名の由来が語られていました。そこでは、仏様を意味するバカボンではなく、天才的なバカ。ボンは特に意味は無く、関西弁のボンボン。英語のバガボンド(※放浪者)にヒントを得たと書いてありました。パパが誕生した時に「天上天下唯我独尊」としゃべったことから「天才バカボン」の題名になったと信じ込んでいた私は、ショックを受けてしまいました。

残念ながら「天才バカボン」の題名は仏様に由来するものではありません。しかし、お釈迦様はガンジス河中流地域を中心に、80歳で入滅されるまでの45年間布教の旅をされました。もしかすると英語のバカボンド(※放浪者)はインド由来の言葉なのかもしれません。(※本当のところはわかりません)


どちらにしても「天才バカボン」のおかげで「薄伽梵」の意味を知る良いきっかけとなったことは間違いありません。今日は給食から始まる仏様(バカボン)のお話をしました。

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三昧という言葉をご存知でしょうか?「さんまい」もしくは「ざんまい」と読みます。よく読書三昧や料理三昧、悪い意味では悪行三昧、放蕩三昧などに使われます。三昧の意味は「心が静かに統一されて、安らかになっている状態」、禅宗においては三昧は坐禅の事を言います。わかりやすく言いますと「夢中になる」あるいは「なりきる」といったところでしょうか。

朝、墓地を散歩していると、石になりきっているカエルがいました。そのカエルの皮膚を観察してみますと、一部が薄緑色になっており、おそらく苔を再現しているのではないかと思います。何をするでもなくじっと石になり切っている姿は、修行僧が坐禅をしている姿とかぶって見え、己の日常底を問われているような気がしました。

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石と苔を忠実に再現している職人肌のカエル

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葉っぱの色のカエル

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石になりきれていないカエル

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石になりきっているカエルとなりきれていないカエル

今日4月8日はお釈迦様の誕生日です。

お釈迦様は、母親であるマーヤー夫人が、白いゾウが天から降りてお腹に入る夢を見て懐妊されました。
そして、無憂樹(むゆうじゅ:マメ科)の花が咲くルンビニ園でお生まれになられました。お釈迦さまが誕生されたのを見て、竜は天から降りて香り高いお湯と水を灌いで産湯につかったといわれています。

その後、お釈迦様は立ち上がり、右手を天に、左手を地に「
天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」ととなえられたと伝えられています。意味は、私たち一人一人の存在は非常に尊い存在でありかけがえのないたった一つの命をもっているということです。我とはお釈迦様お一人のことではなくすべての人々が尊い命をもっているということを教えているのです。


お釈迦様の呼称に「ほとけさま」があります。
「ほとけさま」の漢字は皆さんご存知の通り「仏」と「佛」の2種類あります。

「仏」の字を分けてみますと、右側のは「わたくし(私)」「〜でござる」「〜であります」を意味するそうです。
左側のと右側のを合わせて「人でム(ござ)る」は、人を意味しています。

「佛」の字を分けてみますと、右側の弗は「〜にあらず」を意味するそうです。
左側のと右側のを合わせて「人に弗(あら)ず」は、人であって人でないを意味し、転じて悟りを開いた者を意味すると私は理解しています。ちなみに「沸騰」の「沸」は「水に弗(あら)ず」は、水であって水でない沸き立つようなお湯を表しています。

「仏」と「佛」どちらが「ほとけさま」にふさわしいかと言えば、漢字のつくりから考えると「佛」に軍配が上がるのではないでしょうか。

今日は、お釈迦様の誕生日である「降誕会」にちなみ「ほとけ」の字について考えてみました。

涅槃を間近にされたお釈迦様は拘尸那(くしな)城外の川の近くでお休みになられていた時のこと、弟子の阿難に「水を汲んできてほしい」といわれました。阿難は「たくさんの馬車が川を渡ったようで水が濁っております。」とお答えしましたが、お釈迦様は三度同じことを言われました。再び阿難が川に行くと、不思議と水がきれいになっています。早速、きれいな水を汲みお釈迦様に差し上げました。これが「末期の水」の起源であります。(絵解き涅槃図参照)

阿難が「何故に川のほとりで入涅槃せられるのですか」とお尋ねすると、お釈迦様は仰せられました。「人はただ死ぬ覚悟ができていないゆえに迷うのだ。私がこの川のほとりで涅槃に入るのは、人間の命は水の流れのように少しもとどまることなく、夜も昼も静止することなく縮まり失せてゆくことを、この川の流れで知らしめるためである」(涅槃像勧瑜録参照)

今日2月15日は、涅槃会(ねはんえ)です。
瑞雲寺本堂に涅槃図を前にして、午前9時に法要を営みました。


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人物の後ろに見える水の流れは跋提河(ばつだいが)とされています。
跋提河とは天竺(インド)の大河のことをいいます。

12日のブログでは猫が描かれている涅槃絵の紹介をしました。
瑞雲寺にある涅槃絵には猫が描かれていません。
なぜ描かれていないのでしょうか?

「木にかけてあった薬袋を、お釈迦様のためにネズミが取りに行こうとしたら、猫が邪魔をしたため、お釈迦様は薬を飲めずに亡くなった。」
「釈迦如来の入涅槃の時、あらゆる仏菩薩や動物が哭いたのに猫だけ哭かなかったと云ふので、涅槃図の中へ加へてない」
「五十二類の中に猫ばかりは来なかったという。理由はわからない」(※絵解き涅槃図参照 青山社)

諸説あるようですが、どれが本当なのかわかりません。
お釈迦様が涅槃に入る前に集まって来た動物の順番が十二支になったと聞かされたことがあります。

そのようなわけで、瑞雲寺の涅槃絵の中にある干支を撮影してみました。

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子(鼠)

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丑(牛)

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寅(虎)

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卯(兎)

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辰(龍)

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巳(蛇)

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午(馬)

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未(羊)

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申(猿)

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酉(鳥)

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戌(犬)

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亥(猪)

昨日の日の出が涅槃図の満月を連想させるものでしたので、なぜ月が描かれているのかお話したいと思います。

今年の2月15日(新暦)は、見事な満月でした。新暦ですと必ずしも満月になるとは限りません。今年は偶然にも満月でした。ちなみに昨年は三日月で、来年も三日月だそうです。

なぜ、釈尊は二月に入滅されたのかと申しますと、二月は陽春(陽気にみちた暖かい春)で、万物が成長し、百獣が生み育てられるときであるとのこと。そして、なぜ十五日かと申しますと、満月は少しも欠ける所がないように、釈尊の涅槃(※サンスクリットでニルヴァーナといい、煩悩が吹き消された状態。すなわち悟り。それが転じて死を意味する)も同じであり、この意味をあらわす為にこの日を選んだとされます。

面白いことに毎年旧暦の2月15日は必ず仏滅となっています。よく考えてみれば当たり前の話で、旧暦の1月1日は先勝、2日は友引、3日は先負、4日は仏滅、5日は大安、6日は赤口。
一巡して7日は先勝・・・・と六曜は繰り返して、2月15日は仏滅となるわけです。



瑞雲寺の涅槃図は旧暦に基づき、3月15日(旧暦2月15日仏滅)まで掲げる予定です。

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瑞雲寺の涅槃図

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涅槃図の満月

2年前の2011年3月発売のCOURRIER JAPON誌に「今日から始める記憶力UP法」と題して、瞑想の効果について書かれてありました。

ダライ・ラマ法王が2005年に脳神経科学者とともに仏教僧の記憶のテストに挑んだ。最初に実施された視覚記憶テストでは、いつも瞑想を行っている僧と瞑想を行っていない人の間に差が見つからなかった。

次に、瞑想を終えた直後の僧にテストを実施したところ、信じがたいほど高いパフォーマンス性を示したという。僧侶でなくとも、たった20分の瞑想で、直後の視覚記憶と空間認識技能は劇的に高まるという結果が得られた。

瞑想は神経を研ぎ澄ませるとともに反応時間の速さを向上させるという研究結果も報告されている。


瞑想とは目を閉じて心をしずめる修行ですが、目を開いて(※正確には半眼)坐る坐禅にも効果があるのではないかと私は期待しています。坐禅に効果を求めてはいけないことは重々承知なのですが、皆さんに実践してもらう為に20分坐禅をおすすめします。

坐禅は線香一本が灰になる時間、約40分から50分坐ります。
この時間ですと長くて一般の方はなかなか続けることができません。
そこで20分坐禅なのです。

もし、スマートフォンをお持ちの方でしたら、アプリの「雲堂」をダウンロードすることをおすすめします。このアプリは、坐禅の時間の設定(5分〜60分まで)が容易にできますので試してみてはいかがでしょうか?

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