お館山と周辺

2024.03.03 Sunday

(一ヶ月以上前の話題で申し訳ございません)

1月中旬、空いた時間にお館山がどうなっているのか久しぶりに登ってきました。

 

お館山

 

坂町にある金山城登り口

 

崩れた石垣にはブルーシートが掛けられていました。危険ですので近寄らないで下さい。

 

頂上にあるコンクリートでできた椅子。小学生の頃、ここに座って絵を描いている人を見かけたことがありました。現在、見晴らしは良くありません。

 

頂上の巨石にある四角い穴には、忠魂碑という石碑があったといわれています。

 

巨大な稲井石の石碑。この石碑を運ぶ為に登山道を新たに作ったという話が伝わっています。写真では大きさが伝わりにくいですね。

 

お館山頂上

 

お館山頂上から見た小富士山

 

金山の町並み。お館山の標高(117m)はシン・ゴジラと大体同じです。

 

長者山

 

モダン橋(赤)と丸森大橋(黒)

 

残念ながら旧佐野製糸場方面の見晴らしは良くありません。

 

お館山頂上から撮影したと思われる昔の写真。いつ撮影されたかは不明です。

 

今の写真と佐野製糸場を合成した写真。復刻版「故郷金山」より。もし建物があったのなら富岡製糸場のように観光地になっていたかもしれませんね。

 

 

お館山を下りる際、金山神社に通じる道を進んでみました。

 

金山神社

 

今の金山神社

 

こちらは昔の金山神社。幕には大正七年とあります。

 

佐野理八翁頌徳碑

 

佐野理八翁頌徳碑。佐野理八翁は滋賀県人で佐野製糸場の創設者です。生糸の改良、養蚕業の発展に尽力するかたわら測候所を設け天気予報を行うなど公共事業に貢献されました。大東亜戦争中に撤去した銅像に代わり頌徳碑が建立されました。

 

銅像があった頃の頌徳碑

 

小富士山の大石からできた金山神社の大鳥居と石段。石段の数は百九段です。

 

旧金山小学校

 

金山小学校発祥の地の記念碑

 

旧金山小学校があったところは後に金山保育所となりました。その後、建物を取り壊しゲートボール場になったりしましたが、今は何もありません。

 

おそらく金山保育所があった頃からある門扉。

 

旧金山小学校(瑞雲寺にあった写真より)

 

旧金山小学校の後に建てられた大竹メリヤス工場。写真は解体前の2020年6月に撮影。

 

旧金山小学校(瑞雲寺にあった写真より)

 

表小路集会所。以前は交番でした。まだ建っているのがうれしいです。

 

旧丸森町農業協同組合金山支所と鉄骨の火の見櫓。支所の入口にあったガチャガチャでウルトラマンのバッジが当たった感動は今でも忘れられません。

 

火の見櫓と小富士山。火の見櫓のサイレンは朝5時(5時半?)と11時半に鳴っていたように記憶しています。櫓の半鐘はどのような音がするのか叩いてみたいです。

金山の観光マップ

2022.09.04 Sunday

一昨日は一年に一回の検診(会場は金山まちづくりセンター)でした。帰り際、入口にあるレタースタンドに目を向けると新しくできた金山の観光マップ(金山自治会発行)が置いてあり、一部頂いて自宅に戻りました。

 

早速、観光マップを再び手に取ってみると、表紙に金山城の石垣と桜の写真、読み物として金山の歴史、ゆるキャラやまちゃんなど一枚の紙にすっきりとまとめられており、とてもいいサイズだと思いました。

 

二代目の金山の観光マップ

 

金山の歴史

 

金山の地図とふる里かるた

 

白山堂跡の石碑を一度だけ見たことがあるのですが、今ではどこにあるのかわからない状況です。

 

かつて金山は日本一小さい町と知られておりました。面積はそんなに広くありませんので巡っても何日もかからないと思います。昨年、瑞雲寺のホームページを新しくしたのをきっかけに作成した金山ふる里かるたのページもありますので、お時間がありましたら観光マップと合わせてご覧になってはいかがでしょうか。

50回を迎えた竹馬運動会

2021.01.24 Sunday

23日、金山小学校の校庭で行われた竹馬運動会にほら貝担当(※金山歴史伝承会)として参加してまいりました。午前午後と檀務がある為、開会式と一番最初の競技の時だけほら貝を吹鳴させて頂きました。

 

一昨年は台風19号、昨年からはコロナで大変な時期を過ごしている小学生達ですが、そんな逆境に立ち向かうかのように颯爽と竹馬を乗りこなす姿を見て勇気を頂きました。だいぶ練習されてきたことだろうと思います。

 

開会式での校長先生のお話によると今年で竹馬運動会は50回を迎えたとのこと。日本全国で竹馬に乗る小学校は多くなったとはいえ、大会として50回を迎えたところは金山小学校の一校だけだと思います。本当におめでとうございます。

 

竹馬運動会のプログラム

 

開会式入場行進

 

校庭から見える小富士山頂上の日本国旗がはためかない程、風が無い穏やかな日でした。

 

榎並さん制作のドラム缶ストーブ

 

どのような雰囲気だったのかはNHKニュースをご覧ください。

 

 

竹馬に乗ることは体幹を鍛えるのに良いと聞いたことがあります。武道でいうところの同手同足(※体の中心軸を捻らない動き)を鍛えられる遊具は竹馬しかありません。何とかこれからも大会を続けてもらいたいものです。

お館山の登山

2021.01.06 Wednesday

前回は、お館山(臥牛城)のお話を致しました。今回は実際のお館山を登ってきました。お館山に関しては幾度となく当ブログで紹介しております。当ブログの検索窓に「お館山」、もしくはカテゴリーの金山歴史伝承会をクリックしてみていただけたらと思います。

 


 

坂町の駐車場からスタート

 

お館山に登るルートは坂町と金山神社の二つあります。どちらもおすすめですが、車で来られる方は駐車場のある坂町から登られた方が無難です。帰りはぜひ金山神社にお参りして下さい。分岐からそんなに距離はありませんのでおすすめです。

 

坂町の駐車場にある金山城址案内図

 

登山道入り口には杖がたくさん用意してあります。

 

お館山登山道

 

鬼門にあたる場所に建てられた不動堂

 

頂上まであともう少しですが、危険ですので写真のところから登らないで下さい。

 

一昨年の台風19号で崩れてしまいました。

 

ここで鬼ごっこをしたら楽しそうですね。

 

金山城の石垣

 

かつて忠魂碑があった巨石

 

お館山頂上からの見晴らし

 

お館山は標高117.1m、ゴジラの身長は118.5m。両者ともに同じくらいの高さです。ゴジラの目線から丸森の地がどのように見えるのだろうかと想像するととても面白い山だと言えます。

 

2020年12月下旬撮影

 

2019年12月撮影

 

旧丸森東中学校の体育館と職員室。まだ残っていることがうれしいです。

 

金山小学校の校歌にある山、小富士山

 

小富士山頂上には日本国旗がはためいていました。

 

見晴らしが悪い鬼形方面

 

お館山のシンボルである杉の木。3年前に伐採した木の年輪を数えましたら125ありましたので、少なくも100年は経っていると思います。

 

片山から撮影

 

運動不足の私でも気軽に登ることができて、しかも見晴らしがいいお館山。丑年にちなみ臥牛城(お館山)に登られてはいかがでしょうか。おすすめの山です。

昔のお館山

2021.01.04 Monday

新年あけましておめでとうございます。

今年は丑年、臥牛城ことお館山についてお話をしたいと思います。

 

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寝た牛の姿に似たり臥牛城(※金山ふるさとかるたより)

 


 

お館山の見晴らし

 

以前昔のお館山は、頂上にいる人と下にいる人と手を振り合えるほど見晴らしが良かった』という話を聞いたことがあり、本当かどうか検証したことがありました。

 

今から5年前の2016年1月、正月休みで戻ってきた妹と弟がお館山に登ることがありました。私はこれはいい機会だと思い、二人に「頂上に着いたら携帯に連絡してくれ」とお願いし、待つこと約20分。ようやく携帯に着信があり通話したところ、今、頂上に着いて手を振っているとのことでしたが、残念ながら私の肉眼では確認することが出来ませんでした。かろうじてデジカメのズームでようやくわかる結果に終わってしまいました。

 

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ズームでようやく二人を確認

 

肉眼で二人を確認できなかったのはお館山の頂上付近にある雑木と遠すぎるのが原因と思われます(※視力の関係も有)。後日、手を振り合えた場所というのは具体的にどこなのかMさんに聞いてみたところ、瑞雲寺より手前の金栄橋のあるあたりとのことでした。どうりで見えないはずだと納得がいきました。

 

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緑の部分は、かつてお館山の頂上と下と手を振り合えたおおよその場所とのことです。

 

半分の距離である金栄橋付近の土手から見上げても、雑木が邪魔をして頂上の一部しか見えませんでした。

 

 

お館山の昔の写真

 

検証は失敗に終わりましたが、ある時、瑞雲寺にある古い写真を整理していると、昔のお館山の写真が出てきました。その写真を見ると頂上の周りの雑木が無く砦といった感じで感動してしまいました。どうやらMさんの話は本当のようです。

 

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瑞雲寺から撮影した昔のお館山。

 

はせがけをしているところから10月に撮影でしょうか?何年前の写真なのかわかりませんが、旧金山小学校の建物があることから推測すると昭和30年代だと思われます。

 

 

どのように変化したか

 

昭和30年代から比べてどのように変化したのか、同じ季節、同じ場所からお館山の写真を撮影してみました。

 

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同じ季節、同じ場所からお館山を撮影

 

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木の葉が落ちたお館山の写真。残念ながら頂上の一部しか見えません。

 

 

今後に期待すること

 

現在のお館山の見晴らしに関して北側は何年か前に木を伐採したおかげで、とても素晴らしい見晴らしとなっております。しかし鬼形方面に関しては、あまり良くありません。土地の関係で伐採できなかったという話を聞いております。

 

これは単に見晴らしが良い悪いの問題ではなく、お館山の向かい側には金山城主である中島公の廟所があるからです。おそらく城と廟所が向かい合うように造ったのだろうと思われます(※御霊屋に登るとわかります)。何とかこの状況を改善してもらいたいところです。

 

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北側から見たお館山

 

御霊屋(中島家廟所)から見たお館山

 

お館山頂上から鬼形方面の見晴らし

 

 

今回は丑年にちなみお館山(臥牛城)についてのお話というより、今後に期待するお話になってしまいました。

瑞雲寺の道標

2020.06.26 Friday

昨年の台風19号の影響による家の解体作業がところどころで始まっています。小さい頃から慣れ親しんだ町並みが変わっていくのに一抹の寂しさを感じます。とある檀家さんより家の解体をする前に仏壇の魂抜きをお願いしますという依頼がありましたので歩いて行ってきました。

 

帰り道、国道113号線沿いにある花壇内に何かの道標(道しるべ)が立っていました。近づいて確認してみますと「古刹 瑞雲寺」とあります。違う面には「昭和十八年十一月 東京 加川茂平 建之」と彫られていました。(※古刹とは古い寺という意味)

 

まさかこの場所に道標があると思ってもみなかったので、記録の為に撮影しました。

 

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国道113号線沿いにある花壇内の道標

 

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古刹 瑞雲寺

 

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昭和十八年十一月 東京 加川茂平 建之

 

道標に彫られている加川茂平さんとはどのような方なのでしょうか?

 

金山歴史散歩によりますと・・・

加川茂平は明治13年(1938年)金山に生れ理髪業を営んでいたが、のちに東京へ進出して一家をなした。弟荘三郎も理髪業を志し、修業ののち東京に開店した。若くして渡米し、アメリカ理容界を視察研究して業界の発展に尽力するなどの実績が評価され、全国理容連盟理事長になった。

 

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故加川茂平氏

 

茂平は郷土の名所・旧跡への案内道標設置・「古郷金山」の発刊などを行ない、郷土の発展に寄与した。

 

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古郷金山の表紙

 

加川茂平氏は金山の名所・旧跡に案内道標を設置した書いてあります。早速、金山内に設置した案内道標を探してみました。

 

 

金山城址の道標

 

この道標は坂町の金山城へ行く道の入口付近にあります。

 

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勤皇城址金山城

 

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東京 加川茂平 建之

 

 

台町古墳の道標

 

この道標は台町へ行く入口にあります。目印はタクシー会社。

 

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台町古墳の道標

 

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東京 加川茂平 建之

 

 

長者山の道標

 

この道標はガソリンスタンドの近くにあります。

 

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社址長者山

 

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東京 加川茂平 建之

 

 

頭髪供養碑

 

案内道標の他に瑞雲寺境内にある頭髪供養碑も故加川茂平氏が建てました。

 

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日本でも珍しい頭髪供養碑

 


 

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加川茂平氏が建てた案内道標と頭髪供養碑の場所

 

 

加川茂平氏が建てた道標は紹介した四ヶ所の他に何ヶ所かあるかもしれません。散歩のついでに探してみてはいかがでしょうか。

竹馬運動会

2020.01.18 Saturday

18日、金山小学校の校庭で行われた竹馬運動会にほら吹き担当(※金山歴史伝承会)として参加してまいりました。

 

昨年の台風19号で出た災害ゴミの集積所として使うことができなかった金山小学校の校庭でしたが、竹馬大会が開催されるほどきれいに整備されており、卒業生の一人としてとてもうれしく思いました。寒さをものともせず素足で竹馬に乗り、颯爽と駆け抜けて行く姿に頼もしさを感じました。

 

 

49年の歴史ある竹馬運動会

 

会場では「竹馬運動会はいつからやっているのでしょうかね?」という話がありました。ある人は「昭和50年かな?」違う人は「昭和48年じゃないの」等、色々な説が出ていましたが、金山小学校史を見てみますと昭和46年からと書いてありました。どちらにしても伝統のある行事に違いはありません。

 

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金山小学校史より(※昭和49年の記事とテレビ映像の写真)

 

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金山小学校史より(昭和50年の記事とテレビ映像の写真)

 

なぜ冬なのか?

 

なぜ冬に竹馬運動会をするのかずっと疑問に思っていたのですが、金山小学校史によると冬の体力づくりには竹馬が最適の運動とのことで始まったそうです。私が小学生の低学年の頃は、重いしもやけになった辛い思い出しかありませんでしたが、高学年になってからは多少寒さに耐えられるようになりました。

 

昨年の小学校の校庭


昨年の台風19号の影響による災害ゴミの集積所が金山小学校の校庭でした。子供たちの宣誓にもあったように、今年の竹馬運動会は中止かと思っておりました。おそらく、地域の皆さんもそう思っていたに違いありません。竹馬運動会を開催するにあたり先生方や関係者の皆さんもだいぶ悩まれたと思いますが、復興の一環として無事に開催できて良かったです。

 

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災害ゴミの集積所となった金山小学校の校庭(※10月下旬、お館山より撮影)

 

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きれいになった金山小学校の校庭(※12月、お館山より撮影)

 

竹馬運動会

 

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竹馬に乗っているお侍さんがいい感じです。

 

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種目・竹馬サッカー

 

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メダルがかかっているクロスカントリー。入賞できた方はうれしかったのはないでしょうか。

 

工夫が見られた竹馬

 

ボルトで頑丈に留められたり、割れないようビニールテープで巻いてある等、見ていて興味深かったです。

 

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作り手の工夫が見られる竹馬

 

竹馬作りの思い出

 

私が小学生の頃は、竹馬を自作していました。節の間隔が同じ竹を見つけることから始まり、竹をノコギリで伐り、数か月に渡っての乾燥、足を乗せる木材の加工を大工さんに依頼、お小遣いで針金を購入し、色々な工程を経て竹と木材を針金で巻いて竹馬の完成。当時を振り返ると、自分で作った竹馬に対する思い入れは人一倍大きかったように記憶しています。

 

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瑞雲寺本堂裏にある竹林

 

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小学生の当時、竹馬作りに使っていた道具。

 

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青竹の状態

 

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ここまで乾燥させるには月日がかかります。

 

当時、竹馬用として阿辺商店で太い針金を購入していました。足を乗せる木材と竹をペンチでしっかりと針金で固定し出来上がりなのですが、最後の仕上げとして、瑞雲寺の焼印を入れていました。

 

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最後の仕上げとしての「瑞雲寺」の焼印

 

ほら貝

 

今回の竹馬運動会では金山歴史伝承会の一員としてほら貝を吹かせて頂きました。持って行った二つのほら貝は、関西のとある名人が作ったものです。二つのほら貝を首にかけて吹けたのは良かったのですが、赤ちゃん二人分抱えているのと同じくらいの重量ですので腰が痛くなってしまいました。

 

寒い場所での音出しは難しいので(※温めると音が出やすい)、榎並さんが作ったドラム缶ストーブはほら貝にとっても見学者の方にとっても良かったと思います。

 

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歴史伝承会の榎並さんが作ったドラム缶ストーブ

 

閉会式が終わり、旧金山保育所にて豚汁がふるまわれたそうですが、腰の痛みの為、泣く泣く寺に帰りました。本当は食べたかったです。

 

 

どのような雰囲気だったのかユーチューブで見て下さい。

 

被災小学校で竹馬運動会 台風ごみ搬出し、宮城丸森

 

「竹馬運動会」台風に負けず今年も開催

 

 

ゴミを処理してくれた方、土を替えてくれた方に対しての感謝の言葉がとても素晴らしく思いました。

お館山の状況

2019.12.15 Sunday

台風19号は日本各地に災害をもたらしました。丸森町も道の寸断、床下上浸水、土砂崩れなど甚大な被害を被りました。改めて、台風の被害を受けられた方に心よりお見舞い申し上げます。

 

金山のシンボルであるお館山も国道113号線から土砂崩れが見えるほど被害を被りました。毎日見ている山ですので、どのような状況なのか見てきました。

 


 

お館山の登山道の状況

 

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駐車場にある金山城址の看板

 

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登山道入口

 

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ブルーシートで覆われた米蔵跡の斜面

 

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手水鉢の水が氷るほど寒い日でした。

 

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土塁へ行く道

 

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出丸跡の崩れはありませんでした。

 

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出丸跡から見える風景

 


 

出丸跡を降りて頂上へ行く道は三つありますが、二か所は土砂崩れがあって行くことができません。

 

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一、最短距離で頂上へ向かう道

 

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お館山頂上へ行く最短の道は崩れて行けません。進入禁止のロープが張られています。

 

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土砂崩れ

 

二、石垣のある道

 

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石垣へ行く道は竹が倒れていたりと少々荒れております。

 

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金山城址の石垣

 

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石垣の横の斜面の土砂崩れ

 

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石垣の前を通って頂上へ行けますが、崩れる恐れがありますのでおすすめできません。

 

三、避難所の脇の道

 

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矢印の通り避難所の脇をお進み下さい。

 

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矢印の坂を進んで行きますと頂上です。

 

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お館山頂上と眺め

 

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お館山頂上

 

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長者山方面

 

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白鳥が一か所に集まっていました。

 

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鹿狼山と地蔵森

 

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小富士山

 

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瑞雲寺から見えるお館山

 

まずは町民の皆さんの生活再建が最優先ですので、登山道の復旧はまだまだ先になりそうです。

佐野製糸工女の墓

2019.12.08 Sunday

今日の午後、外は寒かったのですが小富士山墓地内にある佐野製糸工女の墓の現状を見に行ってきました。台風の後、何度か行っておりましたが、デジカメを持っての行くのは初めてです。記録の為に撮影してきました。

 

小富士山墓地へ行く道

 

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小富士山墓地へ行く道は行けるようになりました。

 

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修復された所

 

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小富士山墓地の駐車場

 

佐野製糸工女の墓の現況

 

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工女の墓自体は大丈夫でしたが、手前が崩れています。

 

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以前の工女の墓

 

立石の登山道

 

工女の墓や墓地を見た後、立石の登山道の状況がどうなっているのか歩いて行ってみました。

 

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立石の登山道の入口

 

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道は崩れていないようです。

 

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木でできた階段も残っています。(※一部無いところ有)

 

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最後の急登

 

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丸森の天然記念物立石

 

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西日を受ける立石

 

小富士山の登山道

 

立石の登山道は大丈夫だということがわかりましたので、小富士山に登ってきました。

 

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雨で土が流された跡がありますが、歩くことはできます。

 

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小富士山の頂上の旗

 

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お館山と金山の町

 

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佐野製糸場跡

 

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小斎方面

守り刀

2019.02.04 Monday

火葬場で読経をする時、棺の上に守り刀が置かれているのを目にします。キラッと光る刀は相手を威嚇し斬るといった武器としてのはたらきがあります。亡くなった方のそばに刀を置くことによって魔物や悪霊を祓う力があるとされているわけです(※所説あります)。光るものといえば鏡。これも刀と同様、光かがやきものを映し出すことから魔物や悪霊を祓う力があるとされ、亡くなった方のそばに置かれたそうです。実際、自転車で旅をして、周りに何もないところで野宿をした際、枕元に十徳ナイフをそばに置いて寝ると安心することがありました。おそらく守り刀の考えと通じるものがあるのだと感じました。

 

金山地区の台町古墳で出土されたものに六鈴鏡と直刀があります。古墳時代の人々も光ものをそばに置くことによって安心してあの世に旅立たれたことと思います。

 

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台町古墳出土の六鈴鏡と直刀

 

六鈴鏡・直刀の他に出土されたものに蕨手刀(わらびてとう)があります。この刀は金山歴史散歩という本によりますと、大正年間に金山の横穴墓から出土されたと伝えられています。実戦に適応された造りで制作年代は八世紀ごろと推定されています。蕨手刀とは刀を持つ柄の部分が山菜のわらびのような形をしていることから、この名前がつきました。

 

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蕨手刀

 

この蕨手刀は副葬された刀とは思われないほど錆びていないようで、どのような刀だったのかずっと前から興味を持っていました。金山歴史散歩では白黒の写真の為、どのような色をしているのかわからないものの、切れ味はとても鋭そうな印象を受けました。

 

つい最近、日本の歴史という朝日新聞社発行の本を読んでいるとき、台町古墳出土の蕨手刀がカラーで出ているのを発見。紙面から受ける輝きに感動してしまいました。

 

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赤い矢印の刀が、台町古墳から出土されたと伝えられる蕨手刀。

 

説明によると、台町古墳から出土されたと伝えられる蕨手刀は鉄質がよく残り研磨することのできる稀有なものだそうです。鍛え肌には鎌倉時代の日本刀と共通する点が多くみられるとのことでした。

 

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蕨手刀の発見分布図

 

台町古墳のある所は、金山という名前の地区です。金山の地名の語源は良質の鉄が取れたことから名づけられたそうです(※武田信玄の兜にも使われたという伝説がある)。また、鉄分を含んだ土を使い金山紬として江戸時代、仙台藩の特産品として名が知れ渡ったといいます。鉄の取れた地域名は鬼形(正式には上片山)です。鬼という字を使った地名には鉄に関することが多いと聞いたことがあります。良質な鉄が取れた金山鬼形地区ですが、この蕨手刀はどこで造られたのかは不明です。

 

最後に守り刀という習俗を通じ蕨手刀はもしかして金山で造られたのでは?と想像するのも面白いものだと思いました。

 

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蛭田鉄山跡(※入口をコンクリートでふさいである)

 

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鬼形山の麓で見つかる鉄を作る過程で出る鉄滓?

 

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