たくさん本を読んだ方は105冊。読書離れ、活字離れが叫ばれて久しい中、105冊という数字に希望が持てました。
金山図書館
入ってすぐにある本の紹介コーナー
キッズコーナー
右側の2冊は、私が小学生の頃からあった記憶があります。
これからも皆さんに親しんでいただけるような図書館を目指して活動していきたいと思います。
過去の出来事については丸森町立金山図書館のとしょだよりをご覧ください。(※PDFになります。)
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中島家廟所に至る石段
掃除前
掃除後
廟所の左側
掃除前
掃除後
廟所の右側
掃除前
掃除後
お彼岸中も強風があり再び掃除をすることになってしまいました。早く穏やかな日が来てもらいたいものです。
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次に、線香やロウソクの火は必ず消して下さい。以前、桜の木のてっぺんから煙が出るという不思議な現象が起きたことがありました。原因は未だに不明ですが、おそらくカラスがタバコか線香をくちばしで咥えて木の上に置いたのではないかとのことでした。
今は乾燥する時期です。
ご協力のほど宜しくお願い致します。
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1月中旬、空いた時間にお館山がどうなっているのか久しぶりに登ってきました。
お館山
坂町にある金山城登り口
崩れた石垣にはブルーシートが掛けられていました。危険ですので近寄らないで下さい。
頂上にあるコンクリートでできた椅子。小学生の頃、ここに座って絵を描いている人を見かけたことがありました。現在、見晴らしは良くありません。
頂上の巨石にある四角い穴には、忠魂碑という石碑があったといわれています。
巨大な稲井石の石碑。この石碑を運ぶ為に登山道を新たに作ったという話が伝わっています。写真では大きさが伝わりにくいですね。
お館山頂上
お館山頂上から見た小富士山
金山の町並み。お館山の標高(117m)はシン・ゴジラと大体同じです。
長者山
モダン橋(赤)と丸森大橋(黒)
残念ながら旧佐野製糸場方面の見晴らしは良くありません。
お館山頂上から撮影したと思われる昔の写真。いつ撮影されたかは不明です。
今の写真と佐野製糸場を合成した写真。復刻版「故郷金山」より。もし建物があったのなら富岡製糸場のように観光地になっていたかもしれませんね。
お館山を下りる際、金山神社に通じる道を進んでみました。
金山神社
今の金山神社
こちらは昔の金山神社。幕には大正七年とあります。
佐野理八翁頌徳碑
佐野理八翁頌徳碑。佐野理八翁は滋賀県人で佐野製糸場の創設者です。生糸の改良、養蚕業の発展に尽力するかたわら測候所を設け天気予報を行うなど公共事業に貢献されました。大東亜戦争中に撤去した銅像に代わり頌徳碑が建立されました。
銅像があった頃の頌徳碑
小富士山の大石からできた金山神社の大鳥居と石段。石段の数は百九段です。
旧金山小学校
金山小学校発祥の地の記念碑
旧金山小学校があったところは後に金山保育所となりました。その後、建物を取り壊しゲートボール場になったりしましたが、今は何もありません。
おそらく金山保育所があった頃からある門扉。
旧金山小学校(瑞雲寺にあった写真より)
旧金山小学校の後に建てられた大竹メリヤス工場。写真は解体前の2020年6月に撮影。
旧金山小学校(瑞雲寺にあった写真より)
表小路集会所。以前は交番でした。まだ建っているのがうれしいです。
旧丸森町農業協同組合金山支所と鉄骨の火の見櫓。支所の入口にあったガチャガチャでウルトラマンのバッジが当たった感動は今でも忘れられません。
火の見櫓と小富士山。火の見櫓のサイレンは朝5時(5時半?)と11時半に鳴っていたように記憶しています。櫓の半鐘はどのような音がするのか叩いてみたいです。
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16日に開花した福寿草
本日、開花した梅の花
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涅槃図
今年の干支である辰(龍)を探してみました。龍そのものは描かれておりませんが、とある人物に巻きつく姿で描かれております。その人物とは難陀(なんだりゅうおう)です。八部衆と一人で水中に住し、雲を呼び雨を起こす蛇形の鬼類である(※「絵解き涅槃図」青山社より)。難陀竜王は宝床(※お釈迦様が横になっている台)の右横に描かれていることが多いそうです。
難陀竜王
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雪つりがやっと役立ちました。
鐘楼堂から見た金山
お地蔵様の頭に積もった雪
午後、仙台に用事があって車で行ってきましたが、ほとんど雪が無い風景に驚いてしまいました。
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升に入った豆
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内 容
1.令和5年次事業報告並びに決算報告について
2.令和6年次事業計画案並びに会計予算案について
3.総代役員並びに世話係の欠員補充について
4.その他
などについて報告がありました。
足元の悪い中の御来山、ありがとうございました。
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興味のある方、お時間のある方は、ラジオ深夜便の聴き逃しサービスをクリックし聴いてみて下さい。
聴き逃しサービスは1月20日に終了してしまうので、ラジオを聴いてまとめてみました。自分なりにまとめたのでわかりずらいところがあるかと思いますが、ご了承下さい。
ラジオ深夜便「これまでのお墓これからのお墓」鵜飼秀徳(僧侶・ジャーナリスト)
いま何が起きているのかお墓の変遷を辿りこれからのお墓を考える。
コロナを振り返ってみると、初年度(2020年)は法事・お葬式の規模が小さくなった。ところがお墓参りに関しては秋のお彼岸には平時に戻った。現在はコロナ前よりもお墓参りは多くなった。5類になってから法事の規模もコロナ前に戻った。弔いごとは、みんなで集まりたいという気持ちが強かったものと思われる。老人施設あるいは病院で満足に看取れなかった方が納骨されてから丁寧に手を合わせたいという気持ちの揺り戻しではないかと思われる。
●全国のお墓をたずね歩いて
全国のお墓を数年間たずね歩いて、北海道のお墓、東京都心部のお墓、京都のお墓、大阪のお墓、九州のお墓、沖縄のお墓の形態は全然違うし弔い方も違う。日本人は豊かな葬送文化を持っていると感じた。
●改葬と墓じまいについて
改葬(かいそう)とは、ふるさとのお墓からお骨を取り出して自分たちが住んでいる近くの納骨堂に持ってくること。墓じまいは改葬の一種ではあるが、一族の墓を撤去してさら地に戻して永代供養にすること。
●家族葬と直葬
お葬式の簡素化として、都会の方ではほとんどが家族葬になった。東京の都心部では家族葬に加えて直葬(ちょくそう・じきそう)という葬式をしない。病院や高齢者施設で亡くなると、日本の法律上では24時間経たないと火葬が出来ない。どこかに24時間安置しお葬式せずに火葬をする、これを直葬という。東京では家族葬と直葬を合わせてほぼ100%に近いと思われる。
●散骨、樹木葬、永代供養という言葉をよく聞くが、これは何が起きているのか?
リーマンショックの2007年から2008年を境にして様々な種類のお墓が出てきた。例えばロッカー式の納骨堂、室内式の納骨堂、樹木葬、自動搬送式の納骨堂という近代ビルの中にICカードをかざすと自分たちが契約している納骨箱が出てきてブースの前で手を合わせるタイプのもの、お墓を持たない散骨特に海洋散骨が出てきた。
●お墓を巡って起きていることを理解するにはどこまで遡ったらよいのか?
日本人の埋葬の歴史は旧石器時代、縄文時代まで遡る。遺跡には手厚く埋葬していた形跡がある。例えば集落の真ん中にお墓を作ってその外側に人々は暮らしを営んでいた旧石器時代の遺跡がある(お墓中心のコミュニティー)。その後に古墳時代があり、権力者の広大な敷地をもったお墓が奈良や大阪にたくさん作られるが、ある時忽然と終わる。平安時代になるとピタッと弔いがなくなり、京都などでは野ざらし、いわゆる風葬(ふうそう)が権力者の間で流行ってくる。弔いにこだわらない今と通じるものがある。江戸時代に入ると今の形と似ているお墓が始まる。明治時代に入ると戦争の時代に入り、戦死者の弔いという形でお葬式が肥大化していく。英霊を村をあげて弔ってゆくという戦前から戦後にかけて壮大なお葬式が続いていく。今は弔いが多様化し簡素化している状況である。
●お寺と檀家の関係ができたのはいつから?
江戸時代の最初、西暦にすると1630年代。1637年にキリシタンの反乱いわゆる島原の乱がおこる。この乱をきっかけにキリシタンの排斥運動、江戸幕府が日本人を全て仏教徒にするという政策に転換していった。村社会の中に一つお寺を作る、これを一村一寺の制度といい日本全国にもれなくインフラとして整えていった。村人たちは中心にあるお寺の檀家になるという制度として固まっていく。つまり檀家になるのが義務となる。檀家になる事で宗門人別改め帳という帳簿に住職が記録するようになる。いわゆる戸籍の原形のようなものである。村ごとに作成され庄屋が保管する。これをきっかけに日本人全員が仏教徒になった。
●永代供養のはしり
亡くなったらお寺の境内地あるいは村のはずれの墓地に自分たちのお墓を持って一族が埋まっていく。次男筋は別のところに作ってゆく。現代の形に近いことが江戸時代の初期に京都を中心に展開していった。江戸時代は引っ越しが認められなかった。ゆりかごから墓場まで村社会で一生を過ごしていた。
幕末の頃、大阪の一心寺(四天王寺の近く浄土宗)が故郷へ戻れない次男筋のために、故郷の親のお骨を少し持ってきて納骨することが始まった。今の永代供養のはしりである。あまりにニーズが高まり、お骨を砕いて粉末にして阿弥陀仏にする骨仏(こつぼとけ)を造り非常な人気となった。仏像一体当たり十数万のお骨で出来ている。この形態は今でも人気があり受け入れ制限をするほどである。
●埋葬の方法の変遷
埋葬とは土に埋める事である。平安時代の平安京では埋めるというより風葬(ほったらかしに近い)に近かった。京都には三ヶ所、広大な風葬の地があった。鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)、化野(あだしの)の三ヶ所である。
●火葬はいつ始まったのか?
火葬の一番古いのは奈良時代である。行基(聖武天皇の命で各地に国分寺が造られたあるいは橋の修繕された方)の師匠である道昭(法相宗開祖)が最初に火葬されたといわれている(続日本紀によれば文武天皇四年、西暦七〇〇年)。その後、火葬が天皇家に取り入れられていった。その当時の火葬は大変で大量の薪を使用しお骨を拾ってお墓に納めなければならない。京都において庶民は風葬あるいは土葬。一部の権力者は火葬。中世は風葬・土葬・火葬と混在していた。
●仏教はなぜ火葬なのか?
約2500年前、お釈迦様が火葬されたからである。多くの宗教は土葬、イスラムは完全に土葬、キリスト教も土葬、日本の神道も土葬、火葬の方が珍しい。江戸時代のはじめにお寺の境内地の片隅に火葬場(野焼き場)を造り、村人たちの火葬を行っていた。ただし地域による。大阪は火葬がほとんど、江戸は半々ぐらい。北陸は火葬が多かった。なぜ火葬が多かったかというと浄土真宗の本山納骨という西本願寺・東本願寺に分骨を行うことをしていた。山間部が多い中国地方や山陰地方、滋賀県、奈良県は土葬が多かった。
●明治以降の火葬
明治以降に火葬が増える。明治元年に神仏分離令という法律ができる。徳川家は仏教で納骨しようとしたが、明治新政府に権力が移り仏教否定に回る。神道と国家が結びつくようになる。神道は土葬なので一時期火葬禁止令が出る。この時期、日本人が全員土葬に戻った。京都や大阪は火葬だったのでお墓のサイズが小さい。京都などは90センチ角の敷地なので土葬ができないので急遽土葬用の墓地が整備される。土地が無い東京では江戸屋敷をつぶして、都立霊園を造った。都立青山霊園、都立雑司ヶ谷霊園、谷中霊園など広大な霊園はその名残である。これらの霊園には古い土葬用の墓地があり石塔が傾いている。その理由は土葬にすると年月が経つにしたがい空洞ができるからである。
●再び火葬が増えていった理由
コレラといった疫病が流行り出した時に土葬だと地下水が汚染したり衛生状況に関して様々な懸念があって火葬に戻った。火葬場が一気に整備され、大正から昭和初期にかけて火葬の割合が増え、終戦直後あたりに火葬と土葬が五分五分ぐらいに戻る。今では日本は世界一の火葬大国になっている。大正2年の時の火葬率は31%、終戦直後の昭和22年で54%、今から45年前の昭和54年で90%を越えて、今は99.9%である。なぜ火葬大国かというと国土が狭いことと仏教国というのが大きい。
●今でも土葬が残っている理由
残りの0.0何%は土葬である。厚生労働省の衛生行政報告例という平成29年のデータによると土葬は103軒。内訳は日本国内のイスラム教徒の方、仏教徒で土葬したい方である。仏教徒で土葬は京都の南部、奈良の北部、滋賀県の一部に今でも土葬を希望する方が少数であるがいらっしゃる。土葬を禁止しないのは信教の自由に関わる問題だからである。但し、東京都の区の条例で土葬禁止しているが法律の墓地埋葬法では禁止していない。
●両墓制とは?
単墓制とはお墓が一つという形態、これが一般的。両墓制とは魂と肉体が埋められる二つのお墓である。山の中に土葬するのを埋め墓・すて墓・サンマイと呼ばれる。集落から遠く離れたところに埋められるお墓なので普段は近づかないしお参りをしない。埋葬して四十九日が過ぎると魂を移して菩提寺の墓地に遺体が埋まらない魂だけのお墓を建立する。これを詣り(まいり)墓・きよ墓という。この二つのお墓の形態を両墓制と呼んでいる。北は埼玉県、滋賀県、京都、三重県の一部、瀬戸内海の島々に残っている。両墓制は土葬を原則としているので、現在は火葬率が上がり、さらに二つお墓を造るのは大変だということで無くなりつつある。
●弔い方が大きく変化している今、永代供養とは?
永代供養は永久に行う供養ではない。その多くは期限付きで33回忌を節目にお骨を出し別の合祀墓に移す。短い期限では7年というのがある。短い期限というケースもあるので永代供養を考えている方はお寺の契約形態をしっかり確認した方が良い。建物の中にあるロッカー式の納骨堂も永代供養をうたってはいるが永久ではない。ロッカー式の納骨堂は骨壺のまま納めるので出し入れしやすいが為に期限がついている。期限を設けないと流動化できないので経営が難しくなるのが背景にある。人気のある樹木葬も永代供養をうたっている。樹木葬にはさまざまなタイプがある。樹木葬には野山にお骨を撒くイメージがある。岩手県一関市にあるお寺は山全部を樹木葬の場にしているが、多くは霊園の片隅に大きな納骨室を造りその脇に枝垂れ桜といったシンボルツリーを植える。シンボルツリーが無ければ一般の合祀墓と変わらない。今はやりなのは30センチ角のプレート置いて、その下に夫婦あるいは個人で納まる樹木葬が人気である。みんなと一緒という樹木葬もあり十分な確認が必要である。樹木葬は永代供養をうたっているが永久ではない。例えば関東では骨壺のタイプで取り出しやすいが為に期限付きが多い、反対に関西ではみんな一緒に納骨室に合祀されるので取り出しすることもできない。
●新しい弔い方
アメリカではコンポスト(自然発酵する肥料)葬が近年エコロジストの間で広がっている。亡くなられるとカプセル状のブースに入れられ、ある程度の時間をおいて土にかえる仕組みである。そしてその土を自然保護林に撒く。完全に地球の一部になる。アメリカのいくつかの州では合法化している。日本では法整備が整っていない。つまり肥料や土になったとしてどこに埋葬するのかという問題がある。日本では霊園に指定された場所でしか埋葬されない決まりになっているので、土だからどこでも埋めていいとはならない。
●日本で行われている新しい弔いの形態
お墓の見本市で、手元供養というのが増えてきた。仏壇に遺骨をしゃれたケースに入れて置いたままにしておく、あるいは遺骨に高温高圧をかけて人工ダイヤモンドという宝石にする。遺骨を業者に依頼すると海外の工場で人工ダイヤモンドとなって戻って来るが結構高額である。人間の骨以外ではペットの骨をアクセサリーにする。墓石のない墓地としてオランダではコンポスト葬に似ているものとして、早く土にかえる特別な御棺を作って埋葬する。この形態は墓地のサイクルが早まる、つまり墓地を再利用しやすいというのもある。オランダは国土が狭く限られているというのもある。京都の南丹市では墓の継承問題が大きく個々の家でお墓を維持管理していくのは難しいというので、村単位で合祀墓を造りみんなでお祀りして永続的に管理するというのがある。大阪の一心寺のケースと似ている。
●墓じまいという流れの中での葛藤
僧侶の立場としてはせっかくお墓を設けたのだからこれからもお祀りして頂きたいという気持ちがある。一方で経済的、子供や孫に負担をかけたくないという責任感で墓じまいをするという気持ちもわかる。興味深いデータに東京の大学(鵜飼さんの教えている)でのアンケートでは「お墓を守っていきたい」「お墓を大切にして行きたい」という回答が8割を越えている。若い方の弔う心というのは希薄化と思いきや必ずしもそうでないことがわかった。むしろお墓参りは大切だと思っている若者が多い。お墓は負の遺産ととらえる人もいるが、子供にとって情操教育の場となりうる。お墓の前で手を合わし日々を反省する、お世話になった故人とのつながりを意識するといった目に見えない心の教育の場所である。
●この荒波をどう越えるか?
お墓の分譲といった利益主義になっているお寺さんも多い。そうではなくて、お寺に集う仕組みを作ってゆく、そして祈りの空間であるべきだと思う。特にコロナ禍で家に閉じ込められてしんどいとか、亡くなったおじいさんおばあさんお父さんお母さんと対話をしたいということでお寺に集まった方が多かった。心の受け皿としてお寺が機能していく時代になればお墓も維持していけるのではと思う。社会も変化するしお寺も変化していかなければならない。
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例年ですと、周りに雪があったり、冷え込んでいたりと寒いイメージのあるどんと祭ですが、今年は風も無く穏やかでした。
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能登半島の大地震で被害を受けられた方々に心よりお見舞い申し上げます。
9日の午前中、渓水寺様で行われる大般若の御祈祷に随喜(※参加の意味)してまいりました。
大般若経の経本を転読(※経本をアコーディオンのように動かすイメージ)した後、大きな声を出して「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうしょうじゅ)」とお唱えします。
この大般若経六百巻には、あらゆる魔(※煩悩であったり、災い)をうちはらい、願いを成就する力があるといわれています。前年同様マスクをかけての随喜でございましたが、伊具郡内のお坊さん方の大音声を聞いて身が引き締まった大般若会でした。
渓水寺様より帰ってきて休憩した後、午後2時より瑞雲寺庫裡にて総代会が行われました。
内 容
1.総代役員及び世話係の欠員補充について
2.護持会総会提出議案について
3.護持会総会開催日程について
などについての話し合いがありました。
護持会総会について
護持会総会は、1月25日午後1時30分より執り行われます。
本年度もよろしくお願い致します。