小富士山の大石

2011.04.24 Sunday

二十数年ぶりで、竹藪のせいで見えなかった小富士山の大石を見ることができるようになりました!!詳しくはこちらです。

佐野製糸工女の墓の状況

2011.04.24 Sunday

3月11日の地震で、佐野製糸工女の墓の竿石がずれていたので私一人でなおしてきました。
工女の墓は、台石の上に乗っかっているだけなので、あの揺れでよく倒れずに済んだものだと思いました。


地盤が固いせいもあって、被害は竿石がずれただけでした。


少しずれていました。

ピンクの桜

2011.04.24 Sunday

午前中、自分の車のスタッドレスタイヤとノーマルタイヤの交換を行いました。十字のスパナで力一杯ナットを回す作業は手のひらが痛くなるほどでしたが、最近体を動かしていない私にとって、とても良い運動になりました。約40分ほどでタイヤ交換が終わり、さらにナットの増し締めをする為に金山一周することに。その途中、素晴らしい桜の風景に出会いました。


かなり大きな桜の木です。


近くに行って見上げるととても幸せな気分になれます。


瑞雲寺の桜は散り始めていますが、ここの桜は今が満開です。

↓おまけです↓

自宅の庭に咲いていたチューリップ。


毎年同じ時期に、同じ場所に咲く水芭蕉。

珍鳥来客

2011.04.19 Tuesday

昨日18日付けの河北新報を読んでいて、思わず「あっ」と声をあげてしまった記事がありました。
それは、はるばる兵庫から国の天然記念物であるコウノトリ2羽が丸森町に来たのです。
河北新報によると、兵庫県豊岡市にあるコウノトリの郷公園から来たそうです。
兵庫県豊岡というと自転車で旅をしている時、とある東屋で野宿した記憶がある懐かしい所です。私の旅日記を引っ張り出してみましたら、豊岡から丸森まで自転車で来るのに34日もかかっているんですね。それほど遠い所からはるばる飛んで来た記事を読んで本当にうれしかったです。こんな時期だからこそ本当にうれしい記事でした。
コウノトリさんにお願いがあります。丸森町に限らず、これから飛んで行く各市町村に幸せを運んで下さい。よろしくお願いします。


18日の河北新報より

河北新報の記事はこちら

観音堂で御祈祷

2011.04.19 Tuesday

昨日18日、10時に瑞雲寺観音堂にて御祈祷を行いました。
いつもでしたら、幟を立ててお祭りをするのですが、今回は大地震の件もあり自粛致しました。
堂内での御祈祷では大震災の復興・亡くなられた方の供養・講員の方の身体健全などをご祈念致しました。


瑞雲寺観音堂


観音堂前の桜


同じく境内にある桜


観音堂と桜

憎たらしい程の生命力

2011.04.16 Saturday

ここ2、3日の暖かさで一気に開花した桜。ピンクの花びらは見ている人の心に安らぎを与えてくれます。この季節は桜に目を奪われがちですが、私は地面に生えるスギナ(別名:ジゴクグサ)という植物が好きです。(※以前は嫌いでした)

このスギナはつくしが子孫を残すために胞子を飛ばした後に生える植物のことです。数年前スギナの生命力に驚かされたことがありました。かつて本堂の前は土だったのですが、車で来る方が増えてきたのもあって、ちょうど10年ほど前、アスファルトを敷きました。アスファルトを敷いて便利になったと言ってくれる方が増えてうれしかったのですが、逆に困ったことが出てきました。それはアスファルトを突き破って芽を出すスギナです。境内を掃除する時、スギナの芽を摘むのですが、時が経つとまた芽が出てくるのです。強力な除草剤をかけたって地面を掘ったって無理でした。それもそのはず広島に原爆が落とされ、約60年間は草木一本生えないといわれた焼け野原で一番目に顔を出したのがスギナだったくらいですから。このスギナという植物はふてぶてしい程生命力が強いのです。(※寒さ暑さにも滅法強いらしいです。)

ある日、岡本真夜さんのヒット曲「トゥモロー」の冒頭に「涙の数だけ強くなれるよ、アスファルトに咲く花のように、見るものすべてに怯えないで、明日は来るよ、君のために」を聴いていたら、私は「芽を摘んでも摘んでも強力な除草剤をかけても生えてくるスギナの生命力ってすごいんじゃないか?」と思い、なんだかスギナがいじらしくなって、「おまえも頑張るんだよ!」とそのままにしていたらアスファルトがボコボコになった苦い思い出があります。

この憎たらしい程生命力の強いスギナがなぜアスファルトを突き破るのか、ある工務店の方に聞きましたら、アスファルトを構成する物質はわずかな力でも継続して与えれば徐々に変形していくそうで、この現象をクリープ現象と言うそうです。スギナの芽の力自体は弱いのですが、継続してアスファルトに力を与えると最終的には突き破ってしまうそうです。

今、日本は大震災の影響で大変なことになっていますが、スギナの芽ように弱い力でも押し続ければアスファルトを突き破る日、私たちにとっては復興する日が必ず来ると信じています。つらい日々が続くと思いますが、スギナ魂で少しでも進んで行ければと、今朝アスファルトを突き破るスギナの芽を見て感じました。


地面に生えているスギナ


アスファルトを突き破って芽を出すスギナ。別名:ジゴクグサというだけあって地獄でも生き抜く程の生命力だそうです。


なんとか対策を打たないと凄いことに・・・・今までこのスギナに何度敗北を喫していることか。今ではあきらめて好きになりました。


家の駐車場はスギナでボコボコになりつつあります。この状況を見て好きかと言われると、ちょっと複雑な心境の私です。


アスファルトと石の隙間に芽を出すスギナ。周りに仲間もいない状況でどうやって生きるのだろうか?


春の息吹を感じさせるおびただしいつくし。


スギナ魂で、大震災を乗り切ろう!

今日は花まつり

2011.04.08 Friday

今日は、お釈迦さまの誕生日である「降誕会(ごうたんえ)」です。「花まつり」ともいいます。
3月11日の大震災で被災された方の幸せ、そして亡くなられた方の冥福を祈り、法螺貝を吹いた後お釈迦さまの誕生日である「降誕会(ごうたんえ)」の法要を行いました。

花まつり

今月24日は、丸森が有名になる日

2011.04.06 Wednesday

丸森に関して、明るい話題を提供したいと思います。
すでに知っている方もいるかもしれませんが、
今月24日(日)21時、丸森は全国的に有名になります。
私は断言します。

その理由はこちら


丸森の朝日

グーグルアースで丸森が鮮明に!

2011.04.03 Sunday

今回の大地震で気持ちが沈みがちな私ですが、車で町内を走ってみましたら今まで休んでいたお店が開いていたり、ガソリンスタンドの横を通り過ぎると行列を作るまでもなく給油されている車があったり等、電気・水道に引き続き徐々にライフラインが回復している様子が伺える一日でした。

午後に時間が空きましたので、インターネットのグーグルの地図をぼんやり見ていましたら、なんと丸森の地図が鮮明になっていることがわかりました。地図が鮮明になったのは、グーグルの画像取得日が3月28日になっていることから、つい最近のようです。


グーグルの地図の写真です。


丸森のミステリーサークル「丸松


丸森の天然記念物「立石」も上空から見ることができるようになりました!


新丸森橋


金龍山瑞雲寺


●ここからはグーグルアースの写真です。


グーグルアースで拡大した丸松


グーグルアースの機能で斜めから見ることができます。


よく斜面に作ったものだと感心させられました。


遠くに見える川は阿武隈川です。


百々石公園にある丸森のシンボルマークも見ることができます。

グーグルアースはとても面白いのですが、私のパソコンは大分古いので動きがスムーズではありません。新しいパソコンが欲しいところです。


グーグルアースダウンロードサイト

玄米を見直す

2011.04.01 Friday

3月11日に大地震があってからというもの、瑞雲寺では一日に一食玄米粥を食べています。なぜ11日以来玄米粥を食べているかといいますと、第一に玄米を精白する手間が省けるし電気の節約になる。第二に白米と違ってあまり水を使わず研ぐことができる。第三に玄米粥を作るにあたって土鍋を使っているのですが一度沸騰させたら、後はとろ火でじっくり炊くわけですのでガスの節約になります。第四に白米と比べて栄養があるので余計なものを買わなくてもいい。という4つの理由からでした。

それでは、玄米粥の作り方を紹介したいと思います。

玄米を軽く研いで3、4日ほど水につけておきます。ずっとつけっぱなしにしておくと臭くなってしまうので1日に2回ほど水をとりかえました。


3、4日ほど水につけておくと、胚芽の部分が少し尖がってきます。いわゆる発芽玄米です。この時の玄米が一番おいしい!しかも栄養価も高いといわれています。


私が東京で暮らしていた頃に使っていた土鍋。焼き芋、煮物、御飯などなど何でも作ることが出来る万能な鍋です。


水を多めに、あと塩少々入れます。適当ですみません。


沸騰して15分〜20分そのまま


次は、極弱火にします。時間にして約40分〜50分


約1時間で玄米粥の出来上がりです。発芽玄米粥は噛めば噛むほど甘みが出てきておいしいですよ。


瑞雲寺にあった面白い本を紹介したいと思います。
医学博士二木謙三校閲・吉村正太郎著「健康と開運は自由自在
この本の中に、玄米について興味深いことが書いてありました。

広島被原爆者の手記 「私は玄米食で原爆症を克服した」 田岡まさ枝

昭和20年の2月、主人の再応召でまた広島に帰りました。そして8月6日の朝となりました。前夜は夜通しの空襲で防空壕で夜を明かし、ようやく警報解除となり、ホッとした思いで朝食をすましたところ、飛行機の音が変だと思ってコンクリートの堀越しに空を見上げようとしたとたんにパッという音がし、同時に私は何もわからなくなりました。

気づいた時には2階にほおり上げられ、建具などのメチャメチャに倒れている上に気絶していたことがわかりました。頭には一寸位(約3センチ)の深い傷ができて血が流れ、頸筋も切れて出血し、髪はバラバラに振り乱され、脚は膝から下が傷だらけで血まみれになり、食いこんでいるガラスの破片は数知れず、足の裏まで点々と入っておりました。皮膚の色は顔を始め灰色で、長らく続きました。何分頭をひどく打って気絶したらしく、どうしてこんなになったのか何もわかりませんでした。

無意識で防空服を身につけ、近くの鷹野橋の川原に避難することにし、胸のあたりをやられて血だらけになっている隣の女の方を抱いて、はげましはげまし逃れたのでした。近所の家々からは、あちらからもこちらからも火事が起こりました。逃げ迷うて「助けてくれ!」と泣き叫ぶ声が聞こえてきます。川原に集まる人々の惨めな姿!まるでこの世の地獄図です。全身火傷で狂いまわって苦しむ人々、ああもう目が見えぬという人、そしてみな「水くれ、水くれ」と叫ぶ。その人達に、私達数人で、傷の痛みも打ち忘れて、水を運んで飲ましたり、頭からかけてやったりして介抱したのでした。

夕暮近く家に帰ってみると、もうきれいに焼けていました。もちろん何一つ持ち出すことはできませんでした。もしもう2、3時間気絶が続いたら、私は恐らく焼け死んだことでしょう。

その夜は近所の焼け残りの家の庭に寝て、翌日市外の農家に行き、そこで1ヵ月ばかりお世話になりました。その時の食事が麦飯に野菜で、それが遠慮も加わって少食で過ごしたことがよかったのでした。毎日快便で、傷も割合に早くなおりました。ガラスの破片も4、5日でコロリコロリと抜け出しました。一ヶ所左足の傷がよくなりませんでしたが、それも1ヵ月ほどで飛び出しました。ただ頭の傷だけはとてもひどく、記憶力もぐんぐん減じて駄目になりました。

その中主人が召集解除で帰り、やっと呉で二階生活が始まりました。ところが、それまでは粗食でおりましたのに、新鮮な魚があったため、つい周囲の人々のすすめもあって食べるようになったのでしたが、半年位の後21年の1月頃でしたか、一夜寒気がしてガタガタ震えだし、ひどい痛みと共に血尿が出ました。それが起き上がると出ますので1ヵ月ほど安静にし、断食でなおしました。それから3ヶ月位過ぎると、今度は月経が月に2回もあり、やっとすんだと思ったら、また出血が続きました。呉の○○病院で診察していただきましたが原因がわからす、血止めの注射をされたので、病院通いを止め、1日2回の玄米食と少量の野菜をとることにし、出血のひどい時には断食をしてだんだんよくなりました。

何分長く出血が続いた後なので、痩せこけて、髪は半分位白髪になり、頭の傷は曇りの日や雨の日にはヅキヅキ痛み、皮膚はカサカサの皺だらけになり、一度に十年も年寄りになりました。39歳の時に原爆を受けたのですが、それでも2年位で頭痛はよくなりました。それからも淋巴腺が腫れたり、膝のところに黒い斑点出たこともありましたが、もう数年前から健康体と変わらぬほどに働かれるようになりました。白髪も大分黒くなり肥ってもきました。食欲はあり過ぎるほどで、時々失敗をしておりますが、玄米少食と野菜食にはいよいよ確信が持てるようになりました。(昭和34年10月)

長崎の原爆

長崎市是真会病院長高原憲氏が終戦前関係されていた浦上の第一病院(現在の聖フランシスコ病院)では、原爆当時の入院患者80名、その人達はずっと主食に玄米、副食物は一切野菜を用いていたのであるが、原爆中心地から一キロ足らずの処で、建物は外郭だけを残し無残に破壊され、附近では多数の死者を出したに拘わらず、ここだけは奇跡的にも、数名の負傷者を出しただけで、犠牲者は一人もなく、このことが一時非常な評判になった。

原爆奇跡・正食ベビー 二郎君

原爆症者、しかも不妊手術まで施した広島・宮本知司氏夫人に、ベビー二郎君ができた。宮本夫人は、一時白血球が1800にもなったが、正食4ヶ月で4200に増し、病院でも驚く。

正食は毒をも制す(玄米菜食者は毒を受けず、菜食者は死を免る)

昭和36年3月28日、三重県名張で起きたぶどう酒毒殺事件では、死亡5人、危篤1人、重態9人一部新聞には死亡6人とさえ出た。

しかるに、その生死スレスレの線で危うくも死を免れ得た福岡二三子さんは、平素、肉魚をほとんどとらず、いわゆるベジタリアンであったのである。

まだ驚くことがある。その死亡、重態、何れにも入らなかった人に浜田耕作氏夫人がいる。この人はむしろ誰よりも多く飲まされたが、間もなく、その場で吐いた。そして歩いて家に帰った。その後も異常なし。妊娠6ヶ月だったが、胎児も極めて順調に発育しつつあるという。しかしてこの人は、本年1月以来、ご主人もろとも、菜食に加えて、更に玄米食に親しんでいたのである。

舌根浄くして悪味を受けじ、正食者には毒をも受けつけない力が働く。よし刀傷を受けても、出血は止まる。まこと金剛不壊、「夜昼常に守りつつ、よろずの悪鬼を近づけず」である。



最後に、玄米の医学的根拠はわかりませんが、何の食べ物でもおいしく感謝して頂くことが一番の栄養だと思います。


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